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「ドラえもん 話を聞いてそばにいて ひみつ道具は出さなくていい」に考える支援者像

2週間ほど前。 「子どもとの関わりにおいて大切にしていること」というような話題で話をしていたときに、とある人が以下の短歌を紹介してくれました。

ドラえもん
話を聞いて そばにいて
ひみつ道具は 出さなくていい

クリエイティブディレクター・プロデューサー・コピーライター・エディターの界外 亜由美さん(note)が2005年に詠んだ短歌だそうです。

聞いたその日からなんとなく頭の片隅から離れず、反芻され続けているフレーズです。この感じ久しぶり。



ひとまずフレーズを分解してみていきます。

ドラえもん

呼びかけから始まっています。「ドラえもん」。 ドラえもんといえば、困ったときに四次元ポケットからひみつ道具を出して助けてくれる、頼りがいのある支援者です。

でも、ミーちゃんにメロメロだったり、過去のトラウマからネズミが大の苦手だったり、どら焼きにつられてしまったりと完全無欠ではない。 不完全な存在(「人間味のある」ともいうかな)。

話を聞いて そばにいて

ひみつ道具を使えばいろんなことができるドラえもんに、「話を聞いて そばにいて」だなんて、フツーっぽいお願いをしています。

でも、このフツーっぽいお願いをできる相手ってその人にとってどんな存在なんでしょうね。

ひみつ道具は 出さなくていい

ドラえもんを呼びつけておきながら、ひみつ道具を要求しないなんて!とひっくり返りそうになってしまう落ちです。

でも、「出さなくていい」とは言っているけど、「なくていい」とは言っていないのがなんだかミソな感じがします。



この短歌について、詠み人の界外さんのnoteには、次のように綴られていました。

まだ要望として言語化できない。けれど、自分の存在や挙動をあたたかな眼差しで見つめていてほしい。そして、ひみつ道具を持っている人に、あえて出さずにそこにいてほしい。でも、必要になったら差し出してほしいので、持っているということが大事。という、とっても高度な(わがままな?)お願いなわけです(笑)。でも、人は誰しもこんな思いを根底に持っているのではないでしょうか。子どもの願いって、だいたいこんな感じです。すべての大人は子どもだったわけですから、ほら、ね。

ドラえもん 話を聞いてそばにいて ひみつ道具は出さなくていい|界外 亜由美|note

カコタムで活動している中で(あるいは教員時代も)、「自分の存在や挙動をあたたかな眼差しで見つめていてほしい」というように思えることがちらほら。

「困りごと」を解決するためにひみつ道具をどんなに使っても、なかなか状況が変化しないことがある。そんなとき、ふと立ち止まって関わりを見返すと、「困りごと」に見えたことを解消したいのが一番ではなくて、自分の存在が認められる安全な居所としての役割が大きくなっているように思える。

そういった関係を作る上で、ひみつ道具がなくていいわけではない。短歌でも「出さなくていい」としか言っていない。
ドラえもん」であるためには、「ひみつ道具」はなくてはならないものなのです。分かりやすいシンボルとして。

高校生の頃の自分が、悶えた質問「それじゃ、ただ居るだけなんじゃないの?」への答えは、まだ出ない。
でも、その頃の「ただ見守ること」「ただそばにいてあげること」と、今のそれとは違うものになっている。ひみつ道具をしっかり持っているべきだという点で。

ドラえもんには「ひみつ道具」も必要だし、「話を聞いてだたそばにいる」ができる器量や度量も必要。それゆえ、支援者は「学び」続けないといけないんだろうなぁ......。


しばらく書いていなかったので(そして反芻不足なので)、やっぱり乱筆......。

5年後、10年後に読み返した時、「ふ......まだまだ浅はかだったぞ」と思っているんだろうな......。いあ、そんな僕に出会いたい。