KITA Eng.sub

KITA Eng.の別館。北海道でサーバーとかICTとか教育とかについて考えている人が綴るblog。

新たなる日々の幕開け

2019年3月より、NPO法人Kacotamの常勤職員になりました。

Kacotam(カコタム)には、2016年3月からボランティアスタッフとして関わっていました。 (Kacotam カテゴリーの記事一覧 - KITA Eng.sub

今回、職員になったのは、Kacotamに使える時間を増やしたいというのが大きな理由です。
そう思えるだけの魅力のある団体(活動も関わる人も)だということです。

関わり始めてからの3年の間には、中高生の居場所「ゆるきち」子どもの「やりたい」をカタチにするプロジェクト「カタチ化プロジェクト」「好き・興味」を継続的に深められる場「カコタ部」科学への興味の深まる場「カコタムラボ」ICTで活動を支える「システム開発室」と、多くの新しい取り組みのスタートに立ち会えました。まだ、よちよち歩きのそれぞれの活動を、しっかりとした足取りに育てていきたいと思っています。

あ、これまでの会社にもパートタイムとして幾ばくか残ります。NPO職員ときどきサーバー技術者です。来年は確定申告しなきゃです....。

「ドラえもん 話を聞いてそばにいて ひみつ道具は出さなくていい」に考える支援者像

2週間ほど前。 「子どもとの関わりにおいて大切にしていること」というような話題で話をしていたときに、とある人が以下の短歌を紹介してくれました。

ドラえもん
話を聞いて そばにいて
ひみつ道具は 出さなくていい

クリエイティブディレクター・プロデューサー・コピーライター・エディターの界外 亜由美さん(note)が2005年に詠んだ短歌だそうです。

聞いたその日からなんとなく頭の片隅から離れず、反芻され続けているフレーズです。この感じ久しぶり。



ひとまずフレーズを分解してみていきます。

ドラえもん

呼びかけから始まっています。「ドラえもん」。 ドラえもんといえば、困ったときに四次元ポケットからひみつ道具を出して助けてくれる、頼りがいのある支援者です。

でも、ミーちゃんにメロメロだったり、過去のトラウマからネズミが大の苦手だったり、どら焼きにつられてしまったりと完全無欠ではない。 不完全な存在(「人間味のある」ともいうかな)。

話を聞いて そばにいて

ひみつ道具を使えばいろんなことができるドラえもんに、「話を聞いて そばにいて」だなんて、フツーっぽいお願いをしています。

でも、このフツーっぽいお願いをできる相手ってその人にとってどんな存在なんでしょうね。

ひみつ道具は 出さなくていい

ドラえもんを呼びつけておきながら、ひみつ道具を要求しないなんて!とひっくり返りそうになってしまう落ちです。

でも、「出さなくていい」とは言っているけど、「なくていい」とは言っていないのがなんだかミソな感じがします。



この短歌について、詠み人の界外さんのnoteには、次のように綴られていました。

まだ要望として言語化できない。けれど、自分の存在や挙動をあたたかな眼差しで見つめていてほしい。そして、ひみつ道具を持っている人に、あえて出さずにそこにいてほしい。でも、必要になったら差し出してほしいので、持っているということが大事。という、とっても高度な(わがままな?)お願いなわけです(笑)。でも、人は誰しもこんな思いを根底に持っているのではないでしょうか。子どもの願いって、だいたいこんな感じです。すべての大人は子どもだったわけですから、ほら、ね。

ドラえもん 話を聞いてそばにいて ひみつ道具は出さなくていい|界外 亜由美|note

カコタムで活動している中で(あるいは教員時代も)、「自分の存在や挙動をあたたかな眼差しで見つめていてほしい」というように思えることがちらほら。

「困りごと」を解決するためにひみつ道具をどんなに使っても、なかなか状況が変化しないことがある。そんなとき、ふと立ち止まって関わりを見返すと、「困りごと」に見えたことを解消したいのが一番ではなくて、自分の存在が認められる安全な居所としての役割が大きくなっているように思える。

そういった関係を作る上で、ひみつ道具がなくていいわけではない。短歌でも「出さなくていい」としか言っていない。
ドラえもん」であるためには、「ひみつ道具」はなくてはならないものなのです。分かりやすいシンボルとして。

高校生の頃の自分が、悶えた質問「それじゃ、ただ居るだけなんじゃないの?」への答えは、まだ出ない。
でも、その頃の「ただ見守ること」「ただそばにいてあげること」と、今のそれとは違うものになっている。ひみつ道具をしっかり持っているべきだという点で。

ドラえもんには「ひみつ道具」も必要だし、「話を聞いてだたそばにいる」ができる器量や度量も必要。それゆえ、支援者は「学び」続けないといけないんだろうなぁ......。


しばらく書いていなかったので(そして反芻不足なので)、やっぱり乱筆......。

5年後、10年後に読み返した時、「ふ......まだまだ浅はかだったぞ」と思っているんだろうな......。いあ、そんな僕に出会いたい。

「支援」のかたちのいろいろ――僕のかたち

「それじゃ、ただ居るだけなんじゃないの?」

部活をやめるときに、教員志望だと知っていた顧問が、

「今、やめたとして、教員になってから、部活をやめようとする生徒にどう話すんだ?」という問いに、

「お前が決めたなら...」的なことを返すを答えた時に言われたフレーズ。

良くも悪くも、「教員」や「教育者」、「教育に関わる人」としての立ち位置を考える上で、自分の中で度々反芻されるフレーズ。

Kacotamで、ボランティアメンバーとして活動していつの間にか2年...。

やっと、「ただ居る」ことの尊さが身に染みてわかってきた気がする。

「被支援者」がいろいろなのだから、「支援」のかたちだっていろいろあっていいわけで、絞る必要はない。でも、自分がなしうる「支援」のかたちをはっきりと理解しておけることは、何かアクションを起こすこと、起こさないことの判断の自信につながると思う。

うん。徒歩通勤ちゃんとしないと、乱筆になるなぁ...。

年の瀬なので、2017年を振り返ってみる。

気が付けば2017年もあと12時間ほどです...。すっかりご無沙汰して、2017年はこの記事を入れても3記事しか書いていないという...。

2017年の漢字:「___」

 「2017年を象徴するであろう個人的漢字は、『___』かな。」といって始まるのが振り返りシリーズの習わしなのですが、どうも今年は適当なものが思い浮かびませんので、省略 ←

呪文

f:id:kacchan822:20171231102911p:plain f:id:kacchan822:20171231105042p:plain  「黒い画面を見ながら呪文を唱える仕事(サーバー技術者)」を初めて2年と3か月ほど経ちました。Kacotamシステム開発室が立ち上がって(?)、おおよそ1年(正確な立ち上げ時期は謎)が経ちました。GitHub(上)とGitlab.com(下)の草は、まだまだまばらな生え方です(Gitlab.comは主にカコタムシステム開発室関係のもの。2017年9月から自前サーバーのGitlabから移設)。

 サーバー技術者としては、ぬくもりある運用ができる規模のクラウドサーバー案件が中心なので、まだまだインフラの下の段階の部分やネットワーク周りだったり、逆に今を時めくコンテナ系やオーケストレーション的なものだったりも、未知領域が多い。といいつつも、どこまでをカバーするのが領分なのかさえ謎。  Kacotamシステム開発室では、いわゆるフルスタックエンジニアポジション。Python3、Djnagoでごにょごにょしている。本格的にごにょごにょしだして1年が経って、初期に書いたコードやDBの設計を見て悲しくなる今日この頃ぐらいにはなった。

バスケットボール

f:id:kacchan822:20171231111005j:plain  昨年に引き続いて札幌地区の高校年代の試合で笛を吹かせてもらった。吹きこぼしも判定ブレもまだまだあるけど、昨年よりも自信をもって吹ける笛が増えたような気がする。3~5月までの間、社会人バスケットサークルでプレーヤーをやっていたのも少し利いたのかもしれない。スケジュールの余裕を確保できるようになったら、再開したい...。

学習支援活動

 2017年の漢字を決めることはできなかったけど、頻出語句としては「カコタム」。それぐらいの勢いがある関わり具合(頻度)だった。子どもたちと向き合う時間の他にも、教え方・関わり方、団体の行く先、子どもの個別の諸課題について議論して考える時間が多かった。いろんな背景を持ったボランティアメンバーと話をしていくというのは、大変興味深い時間だった。そんな中でも、「不登校」という部分について、「教員」という立ち位置を目指していたころ、「教員」という立ち位置だったころの自分には見えていなかった何かを見せてくれている気がするが、今はまだはっきりとはわからない。


 年の瀬シリーズの過去記事

「学習支援」という営みを再考する

「札幌 学習支援」でGoogle先生に聞くと、大体3番目ぐらいには出現する、特定非営利活動法人Kacotam。 kacotam.com

この活動をお手伝いし始めて、17ヵ月が経ちました。 新聞に掲載された活動説明会の記事を見て、活動説明会に参加したときには、まさか多くの時間をこの活動に使うようになるとは思っていませんでした。 もろもろの縁もあってか、ここ数ヶ月のGoogleカレンダーはオレンジ色(Kacotam関係)がひしめき合ってます。

活動のもろもろの中で、「『学習支援』ってなんやねん論」が度々繰り広げられています。 「学習」という言葉、「支援」という言葉がそれぞれ持つ一般的な印象の枠組みにとどまらないような「学習支援」の定義づけそれに基づく活動へと発展していきそうな気がしていてワクワクしています。 というよりも、そうであるからこそ、自然と多くの時間をかけて関わっているのかも知れません。

「学習支援」団体として活動しているのに、「学習支援」の定義が固まっていないというのは、なんだか怪しく思うこともあるかもしれませんが、活動をしながら団体が掲げるビジョン「すべての子どもたちが学びの機会に出会い、自己実現に向けて挑戦できる社会」を実現するために必要な「学習支援」の在り方を謙虚に模索し続けているという点は、面白いところ(強み)ともとれるのではなかろうかと。

いまだに「学習支援」というものをどのように捉えて、どのように子どもたちと関わっていくのかは、混沌の渦の中にあって、結論が出ているわけではないのですが、もしかするとKacotamなら、それを出せるか、社会の在り様に合わせて柔軟に対応再考できるようなものを生み出せるような気が、一個人としてはしています。

とりとめのない話の結びにかえて...。 社会一般的な「学習支援」という枠組みに収まらないという点で、今後が楽しみな活動が、4月から始まっています。 「カコタ部」という平たく言えばKacotam内での部活動。もうちょっというと、子どもたちがのびのびと好き(やりたい)を継続的に取り組める場を提供する活動です。世間で持たれている「部活」のイメージにとらわれない活動をしたいという想いが込められ、「カコタ部」という固有名称が与えられています。 camp-fire.jp

かくいう僕は「写真部」を任せていただいております。 上記ページの中でも述べていますが、「写真を撮る」、「写真を共有する」ということは本当に身近なものになりました。一昔前のデジカメよりも何倍も性能の良いカメラが子どもたちの手の中に常にある状況です。 一方で、その深さを楽しもうとした時のハードル(非物理的な)は、それほどかつてと違わないような気がしています。あるいは、もしかしたら深みへと進んだかもしれない子たちが、その手前で満足するようなこともあるかもしれません。それが悪いとは思いませんが、ほんのちょっとの機会があれば、一歩を踏み出してもっと楽しめるのなら、その方がいい気がするので、そんな活動にしていけたらなと思っています。

その中には、たくさんの「学び」の機会があって、「自己実現」の為に必要な「自信」だったり「自己肯定感」だったり「自己効力感」だったり、いろんな人とのつながりだったりを得ることにつながっていくのではないかなと漠然と思っています。